河童 · 芥川龍之介

Chapter 18: 一七

僕は河童の国から帰ってきた後、しばらくは我々人間の皮膚の匂いに閉口しました。我々人間に比べれば、河童は実に清潔なものです。のみならず我々人間の頭は河童ばかり見ていた僕にはいかにも気味の悪いものに見えました。これはあるいはあなたにはおわかりにならないかもしれません。しかし目や口はともかくも、この鼻というものは妙に恐ろしい気を起こさせるものです。僕はもちろんできるだけ、だれにも会わない算段をしました。が、我々人間にもいつか次第に慣れ出したとみえ、半年ばかりたつうちにどこへでも出るようになりました。ただそれでも困ったことは何か話をしているうちにうっかり河童の国の言葉を口に出してしまうことです。

「君はあしたは家にいるかね?」

「Qua」

「なんだって?」

「いや、いるということだよ。」

だいたいこういう調子だったものです。

しかし河童の国から帰ってきた後、ちょうど一年ほどたった時、僕はある事業の失敗したために……(S博士は彼がこう言った時、「その話はおよしなさい」と注意をした。なんでも博士の話によれば、彼はこの話をするたびに看護人の手にもおえないくらい、乱暴になるとかいうことである。)

ではその話はやめましょう。しかしある事業の失敗したために僕はまた河童の国へ帰りたいと思い出しました。そうです。「行きたい」のではありません。「帰りたい」と思い出したのです。河童の国は当時の僕には故郷のように感ぜられましたから。

僕はそっと家を脱け出し、中央線の汽車へ乗ろうとしました。そこをあいにく巡査につかまり、とうとう病院へ入れられたのです。僕はこの病院へはいった当座も河童の国のことを想いつづけました。医者のチャックはどうしているでしょう? 哲学者のマッグも相変わらず七色の色硝子のランタアンの下に何か考えているかもしれません。ことに僕の親友だった嘴の腐った学生のラップは、――あるきょうのように曇った午後です。こんな追憶にふけっていた僕は思わず声をあげようとしました。それはいつの間にはいってきたか、バッグという漁夫の河童が一匹、僕の前にたたずみながら、何度も頭を下げていたからです。僕は心をとり直した後、――泣いたか笑ったかも覚えていません。が、とにかく久しぶりに河童の国の言葉を使うことに感動していたことはたしかです。

「おい、バッグ、どうして来た?」

「へい、お見舞いに上がったのです。なんでも御病気だとかいうことですから。」

「どうしてそんなことを知っている?」

「ラディオのニウスで知ったのです。」

バッグは得意そうに笑っているのです。

「それにしてもよく来られたね?」

「なに、造作はありません。東京の川や掘割りは河童には往来も同様ですから。」

僕は河童も蛙のように水陸両棲の動物だったことに今さらのように気がつきました。

「しかしこの辺には川はないがね。」

「いえ、こちらへ上がったのは水道の鉄管を抜けてきたのです。それからちょっと消火栓をあけて……」

「消火栓をあけて?」

「旦那はお忘れなすったのですか? 河童にも機械屋のいるということを。」

それから僕は二三日ごとにいろいろの河童の訪問を受けました。僕の病はS博士によれば早発性痴呆症ということです。しかしあの医者のチャックは(これははなはだあなたにも失礼に当たるのに違いありません。)僕は早発性痴呆症患者ではない、早発性痴呆症患者はS博士をはじめ、あなたがた自身だと言っていました。医者のチャックも来るくらいですから、学生のラップや哲学者のマッグの見舞いにきたことはもちろんです。が、あの漁夫のバッグのほかに昼間はだれも尋ねてきません。ことに二三匹いっしょに来るのは夜、――それも月のある夜です。僕はゆうべも月明りの中に硝子会社の社長のゲエルや哲学者のマッグと話をしました。のみならず音楽家のクラバックにもヴァイオリンを一曲弾いてもらいました。そら、向こうの机の上に黒百合の花束がのっているでしょう? あれもゆうべクラバックが土産に持ってきてくれたものです。……

(僕は後ろを振り返ってみた。が、もちろん机の上には花束も何ものっていなかった。)

それからこの本も哲学者のマッグがわざわざ持ってきてくれたものです。ちょっと最初の詩を読んでごらんなさい。いや、あなたは河童の国の言葉を御存知になるはずはありません。では代わりに読んでみましょう。これは近ごろ出版になったトックの全集の一冊です。――

(彼は古い電話帳をひろげ、こういう詩をおお声に読みはじめた。)

――椰子の花や竹の中に
  仏陀はとうに眠っている。
路ばたに枯れた無花果といっしょに
  基督ももう死んだらしい。
しかし我々は休まなければならぬ
  たとい芝居の背景の前にも。
(そのまた背景の裏を見れば、継ぎはぎだらけのカンヴァスばかりだ?)――

けれども僕はこの詩人のように厭世的ではありません。河童たちの時々来てくれる限りは、――ああ、このことは忘れていました。あなたは僕の友だちだった裁判官のペップを覚えているでしょう。あの河童は職を失った後、ほんとうに発狂してしまいました。なんでも今は河童の国の精神病院にいるということです。僕はS博士さえ承知してくれれば、見舞いにいってやりたいのですがね……。

(昭和二年二月十一日)

The end.